訃報 中村先生永眠

   旅人帰らず No traveller returns




かねてより懸命に病気治療中であられた
中村裕英先生が、本日午前八時五十五分に
肝不全のため、お亡くなりになりました。
享年五四歳。


【ご業績】
『様々なる結婚のディスコースと女性主体──シェイクスピア、エリザベス・ケアリ、ミドルトン』
(渓水社)、『演劇と映画──複製技術時代のドラマと演出』(共著、晃洋書)、『英語のこころ』(共著、英宝社)、『コロンビア大学現代文学・文化批評用語辞典』(共訳著、松柏社)、『フィルム・スタディーズ事典──映画・映像用語のすべて』(S・ブランドフォード原著 、共訳著、フィルムアート社)ほか多数。


つらい作業も嫌な頼み事もおおらかに受け容れ、
いつも笑顔絶やすことなき先生の朗らかな聲、
温かいご存在を忘れることはないでしょう。
永遠の時空のなかで、やすらかにお眠り下さい。












死☆その境を越えて戻った旅人はない未知の国
The undiscover'd country from whose bourn
No traveller returns

          (HAMLET, ACT III SCENE I)


なお、先生とのお別れの儀が下記のとおり
とり行われます。

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  お通夜:九月十三日午後六時〜
  ご葬儀:九月十四日午前十一時〜
  会場:平安祭典広島東会館
     広島市南区大洲五丁目3−22
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〔追記〕
今日、九月十四日、望月の昼空の下、故中村裕英先生のご葬儀が、臨済宗観音寺導師による抜魂・昇魂の儀礼とともにしめやかにとり行われました。
ご遺族のお話によれば、肝臓に転移していたガン細胞は、この春先には奇跡的に綺麗になくなり、再帰の日々を愉しみにされていたのだそうです。ご同僚の吉中教授の弔辞も見事。艱難労苦を明るい笑顔へ反転させる中村先生固有の摂受の人生術が、あらためて想い起こされました。
晴れ渡った青空には、まだまだ熱暑の夏の入道雲が立ちのぼっておりました休日の一日に、遠路ご会葬下さいました教職員ならびに学生の皆様、ありがとうございました。




追悼 中村裕英先生
     想い出アルバム














2006年8月、人間文化研究会創設記念の宮島合宿にご参加下さいましたね。
すでに厳しい闘病生活をなすっていた時期でしたのに、それを微塵も感じさせない快活で平穏な立ち居振る舞い。
温厚で寛容で大らかなお人柄が偲ばれてなりません。




2007年3月:齋藤先生退職記念祝賀会にて




シェイクスピア文学
☆.。 * ☆.。 * ☆
芸術、あるいは
内転するまなざし

☆.。 * ☆.。 * ☆


文学想像によって内転したこの幻想空間においてギニョールや〈人生の映像〉を使って、人間のかくあるべき真実の〈感じ〉を、量塊として定着していく……。シェイクスピアの原理は、この「内転した眼」(大いなる自己)で「小さな現世舞台」を見おろし、そこに興亡する人生のさまざまの姿を見て、それぞれの味わいに深い感銘と快楽を味わっていることだった。「外への眼」〔=縁世界に巻き込まれ追従する自分=普段の日常的自分〕はほとんど閉ざされ(あたかもホメロスが盲目であったという伝記のように)そしてひたすらこの「内転した眼」(本来的自分)で「小さな幻想舞台」をながめおろしていた。

世界史の興亡がその「小さな舞台」に押しよせ、立ったり騒いだり笑ったり泣いたり演説したりして、また消えていったのだ。この世界史の興亡のありさまの与える感銘──こちらの町は燃え、あちらの城では叛乱がおこるというのを上から同時に見て感じる〈興亡の姿〉の与える感銘──ああこういうふうにして人間は生きているな、いじらしく、はかなく、壮大でもあるな、という感銘──を深く味わっているのだ。

まるで甘美な音楽の旋律のように、この幻想舞台に現れては華々しく振る舞って消えてゆく影たちは、ある悲痛さ、澄んだ悲しさ、はかなさを感じさせる。どんな権力も、どんな財も、またどんな美しさも時の力には打ち克ちえない。……でも、世界史の興亡が小さな舞台の上に現れたり、立ったり、騒いだり、泣いたり、笑ったりして、また消え去ってゆく。そこに人間の、人生の、すべてがある。多彩だが、はかない。そうしたつぎつぎにあらわれる〈興亡〉を深い感銘と同情をもってながめている。いろんな人がいる。さまざまな運命がある。……そうした興亡の単純なものの並びによって、この「はかなさ」や「嘆き」やその他の〈感じ〉を吐き出してゆく。

淋しい人がいる。病院のかげに。明るい幸福な窓がある。大通りの夜の賑わいがある。不幸な女がいる。成功した男がいる。浮き沈みする人生がある。ボロボロの晩夏の教師が生きている。しみじみと人生の深さ、寂しさ、すばらしさを〈感じる〉。愉しさがあり、感動があり、嘆きがあるってことそのこと。いま感じているこの〈感じ〉そのこと。……ただ悲しいとかたのしいということではなく、そうして生きている人生へのしみじみとした〈感じ〉。そんな人間が〈生きて居ること〉そのことへの共鳴。淋しいけれどボロボロだけれども、それでもいじらしくその人間が〈生きてある〉ことへの共感。
こうした「人生」のさまざまな姿への共感、こうした「もの」がささえる「人生というもの」に対する愛着、悲しみと喜び。

大都会がある。雨が降っている。濡れた舗道にショウウィンドウの明かりがきらきらする。淋しい人がいる。明るい窓がある。階段を上る人がいる。本を読んでいる人がいる。汽車が出発する。雨が降るしぶいている。バアで騒ぐ男どもがいる。遠くで波の音がする。マガンが水遊びしている。港から月の下を貨物船が出て行く。戦争もある。暴動もある。雨のなかワイパーを動かす自動車……
でもそのうえで、なんというすばらしさ。人生って、なんて豊かな色彩と姿にみちているのだろう。なんとしみじみと寂しいのだろう。なんとものおもわしげな影をたくさん含んでいるのだろう。甘悲しいような感じが、どうしてこうも胸をしめつけるのだろう。孤独だけれど、そこに、何か心ひかれるものがある。人生の魅力、深さ、謎、重さ、孤独、寂しさとともに、人間で在ることのすばらしさ、共感……

こうして起こってくる「現実の変化」こそが、詩的状態なのだ。この〈感じ〉がなくて芸術はありえない。……(五八〜六〇頁)