♡祝♡ 村瀬延哉先生ご退職



















この度、研究会の重鎮であられた村瀬延哉先生がご定年のため、二〇一〇年三月三十一日をもってご退職されました。
先生のこれからの益々のご健勝とご活躍を祈念いたし、お祝い申しあげます。


【村瀬先生の足跡】
 村瀬先生は、京都大学大学院文学研究科のご出身。同大学助手を経て、一九七六年に総合科学部のフランス語講師としてご赴任されました。一九七八年から一年間のフランスでのご研究期間を含めますと、三十四年の長きにわたって広島大学にて、研究、教育、大学運営の各方面でご活躍されたことになります。
 村瀬先生のご専門はフランス文学です。とりわけフランス古典劇の代表作家ピエール・コルネイユのご研究で大きく貢献されました。ご共著を含め著書六点、学術論文四〇余編をご執筆なさいました。フランス語辞書の編纂事業でも重要な役割を果たされましたが、特にご著書『コルネイユの演劇またはリシュリューの時代のフランス』(駿河台出版社、一九九五年)では、それまで注目されることの少なかったコルネイユの初版本を基に、初期作品から四大傑作に至る戯曲を社会的な背景を精査しながら分析なされ、その斬新な切り口と解釈によって、学界でも高い評価を獲得されました。
 教育面では、教養的教育のフランス語や「演劇と映画」、「ヨーロッパ文学の世界」のほかに、専門科目として「上演芸術論演習」、「近代文化研究」などを担当され、大学院では「社会言語文化論」などの授業を通し、学生や院生の指導にご尽力されました。
また、日本フランス語フランス文学会の中国・四国支部会長や、支部代表幹事、学会誌編集委員なども務められ、本国のフランス語フランス文学研究の発展に寄与されました。
 



退任祝賀会でのご挨拶(三月五日、HAKUWAホテルにて)





樫原研究科長や人間文化の諸先生らとともに別れの記念写真




【贈る言葉】
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悲感、あるいは成熟の時間
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              人間文化研究会事務局代表
                   古東哲明

先生は、ジャコメッティの「歩く男」のように飄々と痩躯を運びながら、なにもかもを微笑みのなかに呑み込んでゆかれる方でした。でもその背後にただようのは、あの独特の「悲感」。
 いつのことだったでしょう、最初にお会いしたのは。ぼくが赴任早々の初夏でしたから、もうかれこれ三〇年ほど前になりましょうか。大学がまだ広島市内にあったころ。雑沓でにぎわう鷹野橋商店街を一筋下がった路地裏の赤提灯の店でした。
 もともと、カミュやサルトルの文学を学びたくて、先生と同じ大学に入った小生でしたから、ずいぶん生意気な質問をぶつけていたように想います。不安と混迷のこの現代にあって、フランス文学は一体どんな開放の道を提示しえているのかみたいな、今から想えばじつに青臭い愚問をぶつけていたように記憶しています。
 そんなおり先生は、静かな湖水に佇んでおられるかのように涼しげに、やさしい笑顔の中で、たわいない話や愚問を呑み込んでおられたように想います。
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 あれからあっと言う間の三〇年です。ですが先生はいまもお変わりない。風に優雅に漂うような痩躯も、かの微笑の向こうに広がる湖水のような「悲感」も。
 ご存じのとおり悲感は仏教用語。たとえ裏切られても不満でも苦しくとも、それを憎しみや怒りや敵意に転じるのではなく、その悲しみを懐に抱いたまま生きる態度です。なぜかといえば、いずれ悲感の湖水の中に、なにか〈途方もなく大きなもの〉が生まれ育ってくるから。「つねに悲感を懐いて心ついに醒悟す」。そう『法華経』寿量品巻にも申します。寛大とか諦めとも違う独特のその風情。優雅に泳ぐ白鳥も水面下では必死に足を動かしてるというかの真実。それが、先生の静かな佇まいをいつも充たしていたように想います。
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 成熟とはおそらくそういうことでもありましょう。いうまでもなく、変質しないような時の経過はありません。というより刻一刻の変質の生起自体が時です。
 たとえば柿。春先に芽生えた柿若葉は、大地の滋養をグイグイ呑み込み陽光をたっぷり浴びながら、いつの間にか枝先に青柿を生育し、それはじょじょに色づき成熟し、やがて秋風のなかに真っ赤な果実を実らせます。いずれ地に落ち大地へ帰るのでしょうが、しかしその前の晩秋の一時、深く熟した柿のじつに美味いこと。深い滋味が溢れること。
 そんな柿にとって、時が経過することは、たんに「均質な時間」が流れることではありません。刻一刻になにかが深まり、なにかを失ない、なにかへ変容していく不断変化の経過です。たえず質的変化を継起させていく「変質時間」です。リアルな時間とはだから、静かになにかと別れつつ、なにかを沈積しながら、ゆっくりなにかを蓄え変質していく生起です。つまり、成熟していく時間だけが在ります。
 柿だけの話ではないはずです。赤子として生まれ、成長し、やがて老いて朽ちゆく人間の生命の時もまた、実際は、日々に変質し熟しその果てに成果を紡ぎ出す、そんな成熟する時間構造をしています。このたび先生もまた、かの悲感のなかで静かに熟成なされた極みで、大学の教育現場から退かれはいたしますが、人生のリアルな時の経過のロジックからすれば晩秋、まことに成熟の極み。熟成した果実が時の雫をしたたらせておられます。
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 そんな先生とお別れする季節となりました。早いものです。フランスみやげに老舗コトー(Coteaux)のチョコ包みを、かの静かな微笑をうかべながら悪戯っぽく差し出されたのが、つい昨日のように想い起こされます。
 愛別離苦とは申します。仏教の八苦の一つとされているこの言葉ですが、でも「悲感」の立場からすれば、じつは反語形。普通なら、愛しいものとの別離の苦しみという、ずいぶん否定的な言葉ですが、ちがいます。苦からの解脱が悟りですから、別離を悲しみ苦しむようでは、まだ修行が足りないことになるからです。仏教の面白いところは、普通は否定的にみえるもの(娑婆、生老病死)を反転させ、肯定形(寂光土、涅槃)に変えるところです。苦という絶望形をそのままに呑み込んで「悲感」し、愉悦の果実へ成熟させることにあります。
 愛別離苦も同様です。「別れるのが苦しいほど愛しい人とこの世で出会えた悦び」。おおむねそんな肯定形へ成熟するはずです。どうぞこれからもその静かな微笑みのなかで、美味しい時の果実をたっぷり味わってくださいますように。